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個展「VOIDに捧ぐ」についての身辺雑記その2 作品の中で寝る自分のこと

2015年10月25日 | note exhibition-2

今回の前橋“市民”ギャラリーでの作品にて、
僕は作品の一部となっている。
 
詳しく述べれば、会場に作ったハリボテでフェイクの屋外(でも実際の外と地続きの)空間で
野宿をしている。
 
この展開は、実は初めてではない。
 
丁度一年前、東京青梅市の一軒家を丸々使ったアートスペース「モデルルーム」にて、
初めて作品の中で野宿をした。(works2014ページ内の「ハウス・カリフォルニア」参照)
 
その時はフェイク屋外を大きめに作ったため、作品内にテントを作り、
そこに常に僕がいて、来場者と窓越しに会話するという半パフォーマンス的なものだった。
 
今回は作品は小さめで、よりvoid感が強まっているように思われる。
その中に僕がいるのは夜寝る時間のみ。
作品内に僕がいる姿は、1Fの映像を除いて来場者には見れない。
見れるのは寝袋やビールの空き缶や使い古しのティッシュペーパーなど痕跡のみ。
 
でも、なんで作品に自分が入るんだろう。
 
毎週末作品の中で眠りに落ちるとき、早朝目覚めるとき、もちろん今朝も、静かに気持ち悪いその時間に、
いつも考える。赤城山の吹き降ろしと朝帰りのホストの叫び声の中、いつも考えることがある。
 
「まさしく、僕はここにいる。ここに生きている。
ハコの中の外で、生きている。
寝ている時は、体の制御が効かない。
だから、目が覚めたその瞬間、演技をしていない自分がそこにいる。
缶ビールを転がし、するめを食べ残し、ティッシュを散らかして、寝汗をかいた自分が、
まさにここにいる。生々しく。
でも、この空間は僕が作ったハリボテ。実際の屋外と地続きのハリボテ。
展示が終わったら、1~2日で原状復帰され、跡形もなくなるハリボテ。
とても建築的だ!自画自賛!
でも、自分自身が作品だ、みたいなことになると、途端に自己嫌悪。
決して自分が作品だなどと言いたいのではない。
そうではなく、生の痕跡を剥ぎ取らずにそこに残すその行為は、
僕から僕を剥ぎ取って僕をただの純粋な「何か」にしたいのだ。
恐らく。 
この「何か」は一度ではごく微量しか分からないし、
何度も色々な角度から探し当てないとならない気がしている。
そしてそれが、砂金なのかうんこなのかは、まだ分からない。
でもそれは、どちらでもいいか。」
 
 
もうすぐ、今週の展示が終わる。。

voidに捧ぐ_スナップショット