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役者の二重性、美術監督、kubo

2017年12月15日 | etc memo movie

毎年恒例の、映画甲子園主催「Eiga World Cup 2017」を手伝う。とは言いつつ、昨年は休んでしまったので2年ぶりのお手伝い。今年は2日のうち初日の海外高校作品の上映会は休ませてもらい、2日目の表彰式&パネルディスカッションの当日スタッフとして参加した。
毎年のことだが、忙しさにムラがあるため空いた時間は錚々たる顔ぶれの審査員たちの評を聞いていた。
全ては聞けていないが、色々と面白い話があった中で特に印象的だったのは、転ぶ演技について高校生からうまく撮る方法を聞かれた際の演出家篠本賢一氏がしていた話。ステージ上で実際に転ぶ演技を実演して見せながら、彼は役者の二重性を指摘していたのが興味深かった。役者としての自分は、当然脚本を読んでいるために自分がこの先転ぶ事実を知っている。しかしキャラクターとしての自分は、この先自分が転ぶことはまだ知らない。その二重性を意識しなければ転ぶ演技は自然には無理だという。
確かに映像では映らないところにサポーターやマットレスを配したりカットを割ったりでなんとか転ぶシーンは撮れるが、舞台となるとそうはいかず、役者や演出に任せるしか無い。

 

式後の立食パーティーにて高校生たちが各審査員たちに群がる中、スタッフである僕も美術監督稲垣尚夫氏に話しかけてみる。今村昌平組として「楢山節考」や「黒い雨」などに参加した経歴を持つ彼は、本来映画美術は気づかれたくは無いと考えており、そのために最優秀美術賞などの賞をとることは、本質的には気づかれてしまったことの証でもあるため、複雑な心境でもあるらしい。その流れで、現代美術やアートとしての美術と映画の美術監督、言葉は一緒だが中々交差しないのはなぜかと質問してみた。彼は、美術監督という肩書き自体かなり最近のものであり、そもそもは監督と大工さんとの直接関係だったらしい。そのため本人も職人としての意識が強く、映画に関わる他の部門に比べ芸術性が低いという。
なる程、美術監督という肩書きが後から来たもので本来は大工なのか。
映画美術にも見ているものの真実らしさと作られたものの作り物さとの二重性を感じ、勝手に篠本氏の役者論と繋がってしまった。
他にも色々と興味深いイベントであった。今の高校生は恵まれているな〜。と、しみじみ。

 

先日、2週間ぶりに映画館へ。「kubo 2本の弦の秘密」を鑑賞。
人形を動かして撮るストップモーションアニメで、見た目で圧倒してしまう画力もさることながら、その物語論に胸を鷲掴みにされてしまう。
永遠と続き完璧だが冷たい月の世界対して、苦しみを抱えいつか終わってしまうという地獄のようだが価値ある地上世界。その先に物語は終わるからこそ心に残って語られるのだし、亡くなってしまった大事な人は物語によって輝き続けるのだという結論には涙腺決壊。

 

どちらも、作り物である物語、フィクションの必要性を強く感じれる貴重な経験ができた。