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不遇だ

2019年01月03日 | memo note

映画監督の黒沢清氏は、映画が全然撮れない時期に「自分は不遇だ」と仲間内に言い回っていたらしい。著書によると、そのおかげでポツポツと映画の仕事をもらえたという。
僕も自ら言ってみようかな。
不遇だ。
不遇だ不遇だ不遇だ!

と、言い続けていても仕方がないので、自分の作品のことをちょっとだけ考えてみた。
建築学生時代、現実のスケールとは程遠い模型や図面のチマチマさに嫌気がさし、自然と個人の作品作りに移っていった。
建築は作家になるためのハードルがかなり高かったが、美術は、少なくとも美術というジャンルは懐が広くてどんなものでも一旦作品として受け入れてくれた(ところが美術界はかなり狭く、反比例するように受け入れられるまでがかなり難しいのだが)。
程なくして、建築の本質が建物本体ではなく模型の方にあるのではないか、という概念に苛まれて、作品が模型的ハリボテ的になっていく。
ハリボテの外壁、会期中だけ変化する擬似的な内と外。建築の本題をどんどん削ぎ落としていくと、最後に残るのは内と外の問題だと思ったからだった。
偽物でありながら本物でもあるような作品を作るうち、映像を使い出した。
大元は作品記録を映像作品として取れるんじゃないか、というものだったと思う。
そんな最中、「建築映画」という概念に出会った。
建築家・鈴木了二さんの本で、一気に僕の人生のバイブルと化した。
簡単にいってしまえば、建築と映画という異分野の衝突により、両者の本質(と思われている)がキャンセルされる事態のことで、例えば映画からはストーリーなどが、建築からは利便性などがキャンセルされ、建築としても異様で、映画としてもお話上あまり意味のないシーンだが非常に描写的な場面として浮かび上がったりする。
正直にいって、僕はこの理論にかなり心を鷲掴みにされてしまっている。
日々の映画鑑賞も建築映画研究だし、作品も映像と建築の衝突点を意識して作ることが多い。

映画館という建築が作る暗闇と、光の集合体である映画の中の暗闇がふとした瞬間につながってしまうようなそんな体験を夢想しながら。